ぽっぺん日記@karashi.org
2008-11-03(Mon) [長年日記]
_ 「読む」とはなにかを解き明かす一冊──
プルーストとイカ―読書は脳をどのように変えるのか?(メアリアン・ウルフ)
新聞を読み、Webサイトを読み、本を読む。 現代を生きる我々にとって、情報を得る手段のうちでも最も頻繁に行なっているのが「読む」ことである。
では、「読む」とはいったいなんなのか? 人間はいつから「読む」ことをはじめたのか? 「読む」ことはどのような影響を人間に与えているのか? 「読まない」ことによる悪影響はあるのか? 米タフツ大学教授であり認知神経科学と発達心理学を専門とする著者が「読む」という行為を様々な角度から探り、その秘密を解き明かそうとしているのが本書である。
著者は「読む」ことに、二つのアプローチから迫っている。 そのひとつが個人的・知的次元における文字──読書であり、もうひとつが生物学的次元における文字──脳の認識である。 著者はそれぞれのメタファーをフランス人小説家マルセル・プルースト、生物学の発展に貢献してきたイカとして、それが本書のタイトルの由来にもなっている。
原著のサブタイトルはThe STORY and SCIENCE of the READING(=「文字を読む脳の物語と科学」)となっているが、著者は「読む」という行為の中でも、特に読書にフォーカスしている。 邦書のサブタイトルを「読書は脳をどのように変えるのか」としたのは卓見といえるだろう。
驚かされるのは、「読む」ことが人間の脳に生まれながらに備わった機能ではないということだ。
人類はクレイトークンと呼ばれる記号が刻まれた粘土片からはじまり、シュメール文明の楔形文字やエジプトのヒエログリフ(余談だが、この二つの文字大系はまったく別個に生まれたとのことだ)、メソポタミア文明のアッカド語、古代ギリシャのアルファベットへと文字大系を進化させてきた。 元々、「読む」という機能を持たなかった人類は、脳の機能のうちの物体認識回路や視覚回路を再利用することによって、それをなし遂げた。 つまり「ニューロン(脳神経細胞)のリサイクリング」を行なったのである。 再利用された回路は今でも私たちの脳に中で生きている。 それゆえ、非常に単純なクレイトークンのシンボルを見た時でさえ脳は活発に働き出すのだという。
アルファベットを生み出すまでに人類は2000年の時間を必要とした。 それからほとんど脳の構造は変わっていないにも関わらず、現代の子供たちは凄まじいまでのスピードで言語に熟達することが求められている。 たとえば、英語圏の子供であれば、5歳から7歳までの2000日である程度のレベルまでの英語をマスターすることが要求されるのだ。
しかし、それがうまくいっていない。 全米読字委員会の調査によれば、アメリカの子供たちの実に40%が十分な読解力を備えた、流暢と呼べる読み手にはなっていないそうだ。 これは子供たちの潜在能力を無駄にしていることにほかならないと著者は述べている。
では、流暢な読み手になるためには何が必要とされるのか。 著者は幼児期からの読み聞かせが大事だと説く。 物語を読み聞かせることにより、子供たちは語彙を増やし、他人を理解する能力を養い、読解力を磨いていく。 そして自ら物語を読むようになり、「熟達した読み手」へとステップアップしていくのである。
著者は興味深い指摘をしている。 熟達した読み手になれば、文章の表面には現われず、奥深くに隠された皮肉や意見、暗喩、視点──いわゆる「行間」というものを理解するようになるというのだ。 それに関連して想起されるのが、「行間を書かない」「考えさせない」読み物が増えている最近の日本の状況だ。 その代表例としてケータイ小説が挙げられるが、コミックについてもそれが言えるだろう。
読み物だけではない、最近のテレビ番組もそうだ。 バラエティ番組を例に取れば、出演者のセリフで笑うべきところがテロップで大写しになり、「織田信長」という名前が出れば、画面の端に織田信長のイメージが映し出されるという具合である。
言ってみれば、「行間が読みない人たちが増えている」ということだと思うのだが、映画でもそれは同様のようだ。映画評論家である町山智浩氏は映画の暗示が理解できない映画評論家がいることを指摘している。
この人が勘違いを起こすのは、セリフでなく、映像や表情や行動だけで意味が示されるシーン、または画面にすら直接は映さないで暗示するシーンだ。つまりセリフではっきり説明されないとわからないのだ。
[映画を観る能力がまったくない映画評論家 - ベイエリア在住町山智浩アメリカ日記より引用]
もし、このまま「行間のない」作品が増えていけば、表現の危機といえる状況になるのではないかと少し心配になる。
さて、インターネットが日常化するにともなって、我々は日々大量の情報を入手している。 しかし、それが本当に理解しているということになるのか。 著者はそう危惧する。
著者は、書き言葉というものに懸念を表したソクラテスの言葉を引く。 ソクラテスが書き言葉に反対した理由のひとつが、それが表面的な理解しかもたらさない──つまり、「読んだだけで分かったような気になってしまう」ということだ。
小難しい本をとりあえず読んだものの「分かったような、分からないような」などと言っている私のような人間にとってはなんとも耳の痛い話であるが、著者は「本を読む」という行為を行なわずとも、単にググってリンクを辿るだけで知識が溢れ出てくるインターネットが、ソクラテスが懸念を表明した書き言葉よりもさらに考える力を失わせているのではないかと懸念している。
正直なところ、私自身も読書と同じくらいの時間をインターネットで過ごしている人間であるし、著者が反対意見を述べているレイ・カーツワイルの『ポスト・ヒューマン誕生―コンピュータが人類の知性を超えるとき』を読んで感銘を受けたクチなので、その主張には多少の反発を覚えないでもない。 しかし、その反面、Wikipediaの内容をそのままレポートにコピペして「調べた」と称する学生たちがいか多いかということを考えれば、その懸念にもある程度同意せざるをえない。
ラストのパートでは、著者は「ディスクレシア(読字障害)」を取り上げている。 ディスクレシアとは知能と関係なく、生まれながらに「読む」ことに苦労してしまう障害である。 トーマス・エジソンやレオナルド・ダヴィンチ、アルベルト・アインシュタイン、グラハム・べルといった偉人たちがディスクレシアだったということには驚かされるが、それ以上に驚かされるのが著者自身の家系がディスクレシアの家系であり、彼女も子供時代にディスクレシアの傾向があったということである。
著者の研究によれば、ディスクレシアの人々はパターン認識が重要とされる分野について非凡な才能を発揮することが多いそうだ。 芸術や建築といった分野、医療であれば放射線科、エンジニアリングやコンピュータ技術であればパターン認識や設計、さらに大規模なデータからパターンを読み取る必要のある金融取引などである。 たとえば、著者の曾々祖父はインディアナ州でタバコの栽培で成功した人だそうだが、数字が苦手で10の代わりに01と書いてしまうようなことがあったそうである。 そのため、勘定書には数字の代わりに線を引いて代用した。 また、著者の息子もディスクレシアであるが、美術の分野に才能を発揮しているそうである。 著者はディスクレシアの人々の隠れた才能を潰さないためにも、ディスクレシアであることの早期発見とそのための教育を確立する必要があることを強調している。
本書はそのすべてページを使って「読む」とはなにかを問い続けている一冊だ。 あまりにも当たり前すぎて普段意識することのない「読む」という行為だが、それは神秘に満ちている。 「読む」ことを再認識させるとともに、「読む」とはなにかを考えさせる好著である。
最後にちょっと個人的なことを。 本書を読了後、自分がなぜ本好きになったかを思い返してみた。 強く印象に残っているのは、私が幼稚園児だった頃、母が寝物語で『もりのへなそうる』を読んでくれたことだ。 たぶん、それが私にとって物語の面白さに目覚めるきっかけだったのだろう。 読書という素晴しいものに出会う機会を与えてくれた母に感謝して筆をおくことにしよう。
- メアリアン・ウルフ
- インターシフト
- 2520円
書評/サイエンス


まで頂ければ幸いです。
海上保安官(坂本 新一)
海をひらく(桜林美佐)
ぼくは猟師になった(千松 信也)
神の家の災い (創元推理文庫 M ト 7-3)(ポール・ドハティー)
一人ひとりに未来を創る力がある テラ・ルネッサンス 1―「心を育てる」感動コミック VOL.3(田原 実)