ぽっぺん日記@karashi.org
2008-04-08(Tue) [長年日記]
_ 自らの死生観を問い直す一冊──自死という生き方―覚悟して逝った哲学者(須原 一秀)
双葉社様より本が好き!経由で献本御礼。
2006年4月に自死を遂げた哲学者須原一秀氏の遺著『新葉隠』に、浅羽通明による解説を加えたものが本書。
自死の原因としては、一般的に言われるものが、堪えられないほどの肉体的苦痛や精神的苦悶、悲観主義や厭世主義、薬などによる一時的な錯乱などであるが、著者の自死の理由はこのどれでもない。 人生の極みに達し人生を生き切ったと感じ、その後の老醜や苦痛に満ちた自然死を拒否するための自死だったのだ。
著者は『新葉隠』を書いた理由をこのように述べている
「もともと明るく陽気な人間が、非常にサバサバした気持ちで、平常心のまま、暗さの影も異常性も無く、つまり人生を肯定したまま、しかも非常にわかりやすい理由によって、決行される自死行為がある」ということを今から立証しようとしているとしているのである。(p.53)
自死したソクラテスや三島由紀夫、伊丹十三の事例を敷衍する一方で、数千人もの人々の最後を看取り聖母と呼ばれたキューブラー・ロスが脳梗塞で倒れた後は、敬虔なキリスト教であったがゆえに自死することができず苦痛に満ちた人生を送り、最後には神に呪いの言葉を吐くようになったことにも触れ、著者は自死が人間にとって「死の穏やかな受容」であり非難されるいわれのないものであることを論じている。
著者の考えはある程度理解はできるものの、それでも同意することはできないというのが本書を読んでの正直な感想だ。 はっきり言ってしまえば、まず「自死」という結論ありきで、後付けで理論を組み立てたようにも感じられる。
著者は人生において何度も「極み」を経験し満足を覚えたことを自死の理由のひとつとして挙げている。その「極み」を覚えた瞬間のひとつを、著者はこう書いている。
幼児だった子供二人と女房の四人で自宅の風呂に入っていて、息子が娘にふざけてお湯をはねかけていて、それを避けるため娘が私の首にかじり付き、女房が向こうで頭を洗っている(p.83)
想像するだけで家族の幸せを感じることができるシーンだ。たしかに「人生の極み」といっていい瞬間だと思う。
しかし、その瞬間は著者だけによって成されたのだろうか。 そうではないだろう。 家族があってこそ成立した瞬間であるはずなのだ。 その瞬間を経験させてくれた家族のために、たとえ苦痛に満ちた人生でも生きるという選択肢は著者になかったのか考えてしまう。 もし、介護などで家族の負担になっていると思えば、それはその時に考えればいいことではなかったのか。
家族の問題まで踏み込む権利は当然、私にはないので無礼に当たることは承知で書くが、あとに残された者が「人生の極み」を覚える機会が著者の自死によって少なくなる可能性、場合によっては皆無になる可能性についてはまったく考慮はしなかったのだろうか。 これについても著者に問いたい気がする。 少なくとも著者の主張のような理由で自死を遂げようとする身内がいるとすれば、そのあまりに利己的な態度を非難せざるをえない。
さらに書くならば、著者が世界に誇るべきと書いている武士道を示した『葉隠』についての記述についても違和感を覚えた。 『葉隠』については未読なのでとやかく書くことはできないが、太平洋戦争に出征し特攻していった士官や兵士が『葉隠』に沿って「毅然として自らの死を受け入れて死んで行った」(p.206)と書くのは、あまりにもシンプルかつ楽観的すぎる見方であることは指摘しておきたい。 航空特攻は実質的には強制であったケースが非常に多かったし、有名な大和特攻でさえ命令によって行なわれたものだったのだ。
本書を読んで自分の死生観について考えてところ、ある小説のことが思い浮かんだ。
その小説とは夢枕貘の登山小説『神々の山嶺』だ。 そこに登場する登山家の手記が自分の死生観として目指すべきもののように感じたのだ。 少し長すぎるが、非常に印象的な部分なので引用する。
いいか。
やすむな。
やすむなんておれはゆるさないぞ。
ゆるさない。
やすむときは死ぬときだ。
生きているあいだはやすまない。
やすまない。 おれが、おれにやくそくできるただひとつのこと。 やすまない。
あしが動かなければ手であるけ。
てがうごかなければゆびでゆけ。
ゆびがうごかなければ歯で雪をゆきをかみながらあるけ。
はもだめになったら、目であるけ。
目でゆけ。
目でゆくんだ。
めでにらみながらめであるけ。
めでもだめだったらそれでもなんでもかんでもどうしようもなくなったらほんとうにほんとうのほんとうにどうしようもなくなったらほんとうにほんとうにほんとうにほんとうのほんとうにどうしようもなくほんとうにだめだったらほんとうにだめだったらほんとうに、もう、こんかぎりあるこうとしてもうだめだったらほんとうにだめだったらだめだったらほんとうにもううごけなくなってうごけなくなくなったら──
思え。
ありったけのこころでおもえ。(文庫版下巻、p.461-462)
たとえ往生際が悪いと言われようとも、こんな風に人生の最後の最後まで挑戦しつづけ、這いながらでも前に進み、力尽きて死をむかえるこそが、自分にとっての理想であるように思う。
- 須原 一秀
- 双葉社
- 1890円
書評/宗教・哲学



まで頂ければ幸いです。
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ハチはなぜ大量死したのか(ローワン・ジェイコブセン/中里 京子)
昨日『自死』という言葉とこの本のことをはじめて知って、調べてたらこの場所に辿り着きました。私にはどっちが正しいことなのか(何が何でも生き抜くことと自分の最後は自分で始末するために死を選ぶこと)判りません。だからこの話をラジオで聞いた時に凄く興味を持ちました、著者は健全なまま死んでいったということはどういうことなんだろうって。もしも決まりがあって、ある一定の年齢が来たときに老後を選択しなきゃいけないとしたら、自分ならどうするんだろう?って考えました。そしたら私は迷わず『死』を選ぶと感じました。だからこの本を読んではいないけど、健全な人間が死を選んだ理由が自分の中にもあるんだと知りました。なのにもしもその相手が自分以外の人間だったとしたなら?と考えると、死を選ばれるのが悔しくてなりません。もしも父に『明日死ぬからね』なんて言われたら、明日が来ないように父を繋ぎとめておくとかするだろうと思いました、生きられるのに死を選ばれるのが悔しくてならない、自分は死を選ぶくせにまわりの誰かがそうするのは認めたくないという感情が湧きます。想像ばかりで話すしかないですけど、もしも死を選んだならきっと誰かが同じようにとめるんでしょう、それに対してきっと誰もが『私のことを思うなら私の一番幸せなようにさせて』って言うんだろうなぁ…結局どっちの立場になっても自分のことしか頭に無いのかもしれないって感じがします、自分が苦しくない選択をきっとするんでしょうね。もしも最後くらい『人のために』を選択できたら死はやっぱり選べないですから…、そんな気がします。死を選択しなくてもいい日々が続くといいなってpoppenさんの書かれた日記を読んでこんなに沢山のこと思いました(照笑)<br>全部全部やりきったら死んでも良いと思うのかもしれない、私もこの死を選んだ著者の方のように死を選択するかもしれないけれど、でもそこまでやりきったなら最後の最後に誰かのことを思って、誰かのために生き抜いてみるのも、最後くらい良いじゃない?って思いますので(笑)そうします!最終的には、死を選択されるとやっぱり心の中でずっと腑に落ちないって感情が生まれますから、だからやっぱり生を放棄しちゃいけないってことです!根性見せろっ!人間だろがっ!!戦え、最後の最後まで!って思います(ワハハ)<br>死を含めて人生ですよね、自分の人生が自分だけのための人生にならないように生きてみたいな。頑張って、頑張って、私も生き抜きたいです!poppenさん面白い日記有難うございました。妙に私は涙が出ました(照)ではしつれいします。
heikiheikさん<br><br>力の籠もったコメントありがとうございます。本書についてはあまり肯定的な読み方はできなかったのですが、「死」について考える切っ掛けは与えてくれたかなと思います。日記に書いたようにうまく生きられるか分かりませんが、せっかく生まれた以上、力尽きるまで進みたい、というのが自分にとっての理想です。その過程で誰かの力になれるのなら、それも素晴しいことだと思います。heikiheikさんのご多幸をお祈り致します。